2012年5月、片道切符でホーチミンに降り立ちました。
仕事も家も、日本にあったものはぜんぶ処分して。
いま思えばずいぶん思い切ったなと思うんですが、当時は不思議と迷いがなかったんですよね。
それでも、空港を出た瞬間のことはよく覚えています。
バイク、バイク、どこを見てもバイクの洪水。日本食のお店もほとんどない。
「この雑踏の中で、僕は生きていけるのか」——正直、それが最初の感想でした。
当時の日本は、iPhoneといえばまだ4Sだった頃。
スマホアプリ開発のブームが来ていて、開発の現場では「エンジニアが足りない」「でもスピードは落とせない」という声があちこちから聞こえていました。受託開発の下請け構造は、僕の目にはもう限界に見えていました。
一方そのころのホーチミンでは、政府がソフトウェア会社に4年間の免税措置を出していて、若いエンジニアたちが次々とスタートアップを立ち上げていました。
「自分たちの手で未来をつくる」という熱気が、街に充満していたんです。
移住の少し前、視察で初めてこの街に来たとき、その空気を肌で感じて直感しました。
ここから、新しいシステム開発の形をつくれる——と。
ただ、白状すると、勘違いもひとつ一緒に持ち込んでいました。
日本で覚えた品質基準と、プロジェクト管理のやり方。それだけは、そのまま持っていけば通用する——むしろ僕が「教える側」だと思っていたんです。
この思い込みが崩されるまでの話を、少し書いてみます。
通訳が、最後まで見つからなかった
スタッフは、まだ誰も決まっていませんでした。
まずは当時のベトナムワークスという求人サイトに、広告を出すところから。
僕はまだ現地の言葉どころか英語もろくに話せなかったので、面接のためにまず通訳を雇うという、だいぶ危なっかしいスタートです。
面白いもので、開発者はわりとすぐに見つかったんです。
最後まで見つからなかったのが、肝心の通訳でした。
結局どうしたか。
以前、六本木で出会ったベトナム人の子が「そろそろベトナムに帰ろうと思ってる」と言っていたのを思い出して、口説き倒して通訳になってもらいました。
求人サイトで埋まらなかった最後の1席を、六本木での偶然の出会いが埋めてくれた格好です。
机10個のオフィスと、6人の若者
最初は2〜3人で小さく始めるつもりでした。
でも2〜3人だと、1人辞めたらまたゼロに戻ってしまう。
だったらと思い切って、6人採用しました。
オフィスを構えたのは7区という、日本でいうとみなとみらいのような、ちょっとおしゃれなエリア。
といっても借りたのは、机が10個入るくらいの小さな部屋です。
メンバーはみんな20代。経験は浅くても、目の奥に強い輝きがありました。
「もっと技術を極めたい」
「いつか、自分の力で何かを変えたい」
そんな言葉が当たり前のように出てくる姿に、僕は1980〜90年代の日本を重ねて見ていました。誰もが夢中でモノづくりに打ち込んでいた、あの元気な頃の日本です。
——もっとも、目の前の熱気を「日本の何年代に似ている」と測ってしまうあたり、僕はまだ日本の物差ししか持っていなかったんですが。
合言葉は “Command+S!”
そのオフィス、週に1〜2度は停電するんですよ。
だから誰かが「そろそろヤバい」と言うと、全員が一斉に保存ボタンを押す。
当時の合言葉は “Command+S!” でした。
リリース当日に、オフィスのWi-Fiが突然つながらなくなったこともあります。
2014年、ベトナムにマクドナルドが初上陸した頃のことで——オープンしたばかりの1号店に、深夜みんなで移動して作業しました。
いま思えばめちゃくちゃです。
でもあの混沌の中で、「一緒に乗り越える」という感覚が確かに育っていました。
「なぜ日本人は、そこにこだわるんですか」
最初の案件は、日本の大手家電メーカーの研究所から受けた、エレベーターに組み込む画面をJavaScriptで作る仕事でした。
その納品した画面が「1ピクセルずれている」と、日本側から指摘を受けたときのことです。
ベトナム人のメンバーが、真顔で僕に聞いてきました。
「1ピクセルのズレなんて、拡大しないと分からないですよね。なぜ日本人は、そこにこだわるんですか」
言葉に詰まりました。
日本にいた頃の僕は、それを「品質」と呼んで、一度も疑ったことがなかったからです。
見えないところにまで気を配る。それは間違いなく日本のものづくりのすごさです。
ただ、外に出て初めて、それが「日本の個性」なんだと気づきました。世界の標準ではなかったんです。
そしてその個性は、こだわる場所を間違えると、スピードを殺す足枷にもなる。
「教える側」のつもりで来た僕が、逆に自分の当たり前を問い直される。
ホーチミンでの日々は、その連続でした。
初めて、スタッフに「相談」した日
とはいえ、最初の頃はうまくいかないことばかりでした。
意図が伝わらない。やり直しが終わらない。
日本で覚えたプロジェクト管理のやり方は、ほとんど通用しませんでした。
いま振り返ると、当時の僕には「自分対ベトナム人スタッフ」という壁があったんだと思います。
うまくマネジメントしよう、うまく動かそう——そういう発想でいる限り、返ってくるのは教科書みたいな答えだけでした。
転機は、あるスタッフが辞めそうだという話が耳に入ったときです。
僕はそのとき初めて、他のスタッフに「相談」をしました。
指示ではなく、「どうしたらいいと思う?」と。
空気が変わった瞬間を、いまでも覚えています。
それまで教科書的な受け答えしかしなかったメンバーが、同じ仲間として、アドバイスや提案をくれるようになったんです。
上から指図しない。自分の悩みをシェアして、アドバイスをもらう。
その立場に立ったとき、バラバラだった6人が、一つのチームになりました。
チームを動かすのはマネジメントの技術だと思い込んでいた、僕の前提が崩れた瞬間でもあります。
あの6人のひとりが、いまCTOをやっている
初期メンバーの中に、新卒1年目で入ってきたダンさんという若者がいました。
「なぜ1ピクセルにこだわるんですか」と僕に聞いてきたのも、実は彼です。
他のメンバーは仕事が終わるとすぐ家族のもとに帰ってしまうなか、彼だけは違いました。
友達が一人もいなかった僕とご飯に行き、酒を飲み、ホーチミンの街を一緒に歩き回ってくれた。
僕の英語の先生であり、まさにベトナムのブラザーです。
彼はその後、一度うちを離れて、オーストラリア、ドイツ、日本——3つの国の会社を渡り歩きました。
そして最終的に——僕のところに戻ってきてくれました。
いまはCTOとして、技術でもマネジメントでも、いちばん難しいプロジェクトは彼が引っ張っています。
あのとき机10個のオフィスにいた6人の中に、いまの会社の背骨になっている男がいた。
こういうことがあるから、人生は面白いなと思うんです。
小さなチームが、文化をつくった
あれから、会社はずいぶん大きくなりました。机10個から始まったチームは、いまは25人です。
あの停電だらけのオフィスにあった空気——悩みをシェアして、うまくいったら全力で「AWESOME!」と言い合う空気は、変わっていないと思っています。
3つの国の会社を見てきたダンさんが、最後にここを選んでくれたことが、その何よりの証拠かなと。
いまでも例のエレベーターに乗ると、当時プロトタイプで作った画面の面影が残っていて、少し誇らしい気持ちになります。
チームは、僕が「動かす側」を降りた日に生まれた。
ホーチミンでの日々が教えてくれたこの一つのことが、いまの僕たちのオフショア開発の土台です。
もしあなたの会社が、かつての日本の開発現場と同じように「エンジニアが足りない。でもスピードは落とせない」という壁の前に立っているなら。
指示を出す外注先ではなく、一緒に考えるチームという選択肢を、一度話してみませんか。
「一緒に考えるチーム」に興味があれば
オフショア開発のこと、チームづくりのこと、まだ何も決まっていない段階でも大丈夫です。僕が経験してきたことで、何かお役に立てることがあるかもしれません。
30分の壁打ちを予約する → お問い合わせ東京とベトナムの二拠点で、ITオフショア開発・海外進出支援事業を展開。「気合いより仕組み」を信条に、不透明になりがちな越境ビジネスを構造化する経営者。「個人のスキル」ではなく「再現性のある品質」を組織と顧客へ提供することにコミットしています。
