2012年5月。
日本では、iPhone 4Sが発売され、ベトナムでは、まだスマートフォンが「高価なレアガジェット」だった頃、日本のIT業界は、まさに“転換期”を迎えていました。
2010年代前半、日本はスマホアプリ開発のブームで、「エンジニアが足りない」「でも開発スピードは落とせない」そんな声がシステム開発現場のあちこちから聞こえていました。
受託開発の下請け構造は限界を迎え、
アメリカ発の革新的なプロダクトが生み出されるなか、
日本の開発現場は「変われない」ジレンマに陥っていたのです。
一方その頃、ベトナム政府によるソフトウェア会社への4年間免税措置の勢いを受け、ベトナムの若いエンジニアたちがソフトウェア開発で自由を勝ち取ろうとするムーブメントが起きていました。
街にはスタートアップ企業が次々と生まれ、「自分たちの手で未来をつくりたい」という熱気に溢れていたんです。
日本の閉塞感との完全な違いを肌で感じたとき、私は直感しました。
「ここから新しいシステム開発の形をつくれる」と。
もともと海外志向が強かった僕は、その勢いに背中を押され、単身でホーチミンへ渡り起業しました。
それが、リノエッジ(Linnoedge Inc.)の原点です。
ベトナムのエンジニアに感じた“元気な頃の日本”
ホーチミンで出会ったエンジニアたちは、当時まだ20代前半。
経験は浅くとも、どの顔も陽気で真っ直ぐで、目の奥に強い輝きがありました。
「もっと技術を極めたい」
「世界とつながり海外に出たい」
「自分の力で何かを変えたい」
そんな言葉を当たり前のように語る姿に、
私は1980〜90年代の日本を思い出しました。
誰もが夢中でモノづくりに打ち込んでいた、あの時代のポジティブな熱量です。
ホーチミンのオフィスは6人からのスタート。
週に1〜2度は停電するような不安定な環境でした。
だから、当時の合言葉は “Command+S!”。
誰かが「そろそろヤバい」と言えば、全員が一斉に保存ボタンを押す──
そんな笑いの絶えない日々でした。
ある日、リリース当日にオフィスのWi-Fiがなぜか繋がらなくなり、
みんなで当時オープンしたばかりのマクドナルド1号店に深夜に移動して作業したこともあります。
いまでは想像もできないけれど、あの混沌の中に、
「一緒に乗り越えよう」という絆が確かに生まれていました。
“指示する関係”から“共に考える関係”へ
最初の頃は、うまくいかないことばかり。
「意図が伝わらない」「2ピクセルずれる」「やり直しがおわらない」──。
言葉も文化も違う中で、日本式のプロジェクト管理のやり方は、全く通用しませんでした。
でも、あるとき気づいたんです。
チームを動かすのは「管理」ではなく「信頼」だと。
ミスを指摘するより、
「どう解決するか」を一緒に考える。
意図を伝えるときは、背景も含めて共有する。
そして、うまくいったら全力で「AWESOME!」と伝える。
そんな小さな積み重ねが、チームの空気を少しずつ変えていきました。
やがて、メンバーからも提案が生まれるようになり、
議論の輪が広がり始めました。これが“メンバーとの共創”の始まりです。
小さなチームが文化をつくった
あれから年月が経ち、チームは規模を拡大しました。
けれど、当時の“ご機嫌なオフィス”の空気は今も変わりません。
文化や言語が違っても、
信頼があればチームは一つになれる。
この経験が、今のLinnoedgeを形づくっています。